中韓と日本人のあれこれ

http://ameblo.jp/oharan/entry-10027327199.html

多様な考え方がある以上、中国人や韓国人と日本人が理解し得ないという部分はわかるが、彼らと
日本人が「分かり合えない最大の理由」が宗教であり、それが、

日本は古くから身の回りの全てに 『八百万(やおろず)の神』 が存在するという、
自然と共に生きて、自然の中で死んでいくという死生観があった(いわゆる神道)

なのか?


この人は神道が日本のオリジナルな宗教として日本人の大半が影響を受けているかのような
認識なのだが、伊藤博文憲法制定の根本精神の所信で

宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ、深ク人心ニ浸透シテ人心此レニ帰一セリ。然ルニ我国ニ
在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ。・・・(中略)
神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖、宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ。

と述べている。要は当てにならないとしている。伊藤はこの後、

我国ニ在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ。

と続けて、まあ、日本近代の一定の方向性は決まる。

これは丸山真男の「日本の思想」の件でこれでもかと、日本のダメさに突っ込んでるところに
あるので、何で今さらこんな話が発生するのか奇妙に思えるのだが、それも含めて日本のダメさなのだろうか。

とにかく、自国オリジナルの文化なりの無批判的なエントリとコメントの類が中国人や韓国人の
日本攻撃と同程度に気持ち悪い。


伊藤博文の説に沿えば「国家の機軸は皇室」になるので、皇室とは自分とは違うところに存在すると
して、ある意味切り離して考えることも可能で気が楽なのだが、このエントリの人からは自国オリジナル
文化を日本人が一律に享受していて、さらにそうすることが日本人なのだというオブセッションを感
じるのだ。
そもそも「死ねば神になる」という考え方を日本のオリジナルとして設定し追求するのがアリなのか疑問
だ。
仮に日本のオリジナル文化を追求していくのなら、自愛に満ちた肯定的スタンスはむしろ害で
いかに批判的スタンスで洗練させていくかの方が有効かと思われる。

例えば、巣鴨プリズンでの獄中死者を合祀するという、不明確な合祀基準を持ち、別の一部の合祀者の
遺族からは合祀の拒否を訴えられている神社ってダメ神社なのではという批判は可能だ。

無条件に「中韓と仲良く」とする側も「中韓に屈するな」とする側も中韓を必要以上に
意識しすぎて自国の立場を危うくする点で同じに思えてくる。